2話 - 総てすべての始まり

ふと目を覚ますと、壁の時計はその精一杯伸ばした腕で朝の5:00を指していた。

「また早く起きすぎてしまった」

気付くと口に出していた。
早起きが得意なことを周りは羨むが、裏を返すと眠りが浅く疲れが取れていないわけで、当の本人としてはもっと寝たいと日々切望している。
ネットで”よく眠れる方法”と謳われているものは一通り試してみたが、一向に深い眠りに落ちることができない。目覚まし時計をセットしても、時計が叫びだす5分前には必ず目が覚めてしまうのだ。

もう一度目を瞑りかけたが、新学期の始業式に二度寝で遅刻など許されない。
諦めて朝の支度を始めることとした。

布団から手を使わずに起き上がり、少し腹筋に負荷をかけてみる。朝から痛めつけるんじゃないよ、と腹筋から文句を言われるが、聞かないふりをした。
まだ冬の寒さがしぶとく残っていて、布団から出るのは勇気がいる。
勢いで足を外へ出してみるが、あまりの寒さに耐えきれず元の位置へ静かに戻した。

やはり寝具は布団に限る。床の硬さを感じられるのがいい。旅行でリゾートホテルに宿泊した時などは仕方なくベッドに横たわるが、あのどこまでも沈み込んでいってしまうような感覚がどうも苦手だ。

2話 - 総てすべての始まり

そんなことをぐるぐると考えながら、徐々に外の寒さへ体を慣らす。2分ほどかけてやっと自分を包む大きな手から逃れた。

布団の横に置いてあるスリッパに足を滑り込ませ、「サッサッ」という音を立てて廊下へ歩みを進めると傷んだ床がキシキシと小さな悲鳴をあげる。こういう時、床ってどんな気持ちなのだろうか、と考えてみたりもする。

凛とした冷たい廊下に響き渡るスリッパの音に心地よさを感じながら、階段を降っていく。この朝の背筋を伸ばしたように硬い空気が好きだ。

「おはよう」

誰かが既に起きているか確認せずに挨拶をするのは、返事をしてくれるか、虚無への呼びかけになるかの賭けだが、今日は前者だった。

「おはようさん」

祖父の声がリビングから飛んできた。
飛来した言葉を確かに受け止め、どう返事しようか少しの間考える。
祖父は優しいが、どうも僕とは気が合わないようで、大体の場合会話が続かず途切れてしまうか時々敬語になる。

「何時から起きてたの?」

「4:30くらいだと」

腹の底から長い時間をかけて離陸させたその言葉は、無事彼の耳へ着陸したようだ。

2話 - 総てすべての始まり

祖父は昔は朝が苦手だった、とよく言うが、僕が知る祖父はほぼ毎日僕が起きる前に活動し始め、リビングでくつろいでいるか散歩へ出掛けており、朝が大得意な老人だ。

朝が苦手だった人間が歳を重ねるにつれて得意になるのであれば、小さい頃から朝が得意すぎる自分はおじいさんになった時どうなってしまうのだろうか。ついに寝られなくなるのかもしれない、と想像し、ぶわっと鳥肌が立つ。この感覚がどうも嫌いだ。

リビングにかかっている時計に目をやると、5:13だった。
自分の誕生日だな、と意味のない感想が湧き上がったが、自分と関係がある数字やラッキーナンバーをみた時に感じる幸せはふわっと自分を抱きしめた。

祖父の横を通り過ぎて洗面所でうがいをして自分の部屋へ戻り、布団の脇で充電されていたスマホを手に取って通知を確認する。日によって通知の量は異なるが、今日はいつか登録した通販サイトからのタイムセールのお知らせと公式アカウントからのLINE通知が列をなしているだけであった。

ホームボタンを親指で押し込み、指紋認証で関門を突破する。
真っ先にLINEを開いて親友の悠人とのトーク画面を開いた。

「おきてるー?」
「おーい」

と二つほど他愛もない言葉を連ねておいた。

2話 - 総てすべての始まり

そして別の友人との会話部屋に移動し、

「そういえばこの間の曲どうだったー?」

と好きなアーティストの曲を共有した際の感想をインタビューしに行った。
リアルな世界ではフランクな会話は得意ではないが、それゆえネットの世界だけでも砕けた会話をしようと「ー」と「?」を多用することを心掛けている。

スマホでメッセージのやりとりをする場合ではいいのだが、パソコンで「?」を打つ場合にShiftを押し忘れていると、「-・-- ---」とモールス信号のようになってしまうため注意が必要である。

今後誰かに発表するわけでもないのに頭の中で「ー」と「?」に関するミニプレゼンを開催しながら、悠人のトーク画面を眺めていると、自分が送信したメッセージに

“既読”

の二文字がくっついた。
彼が無事に起きたことが視覚的に把握できたことに対する安堵と、自分のLINE通知で起こしてしまったかもしれないという罪悪感を覚えながら

「あ、おきたな」

と添えた。
すると

「いまおきた」
「めっちゃいい曲だった!紹介ありがと!w」

二つの通知が上から顔を覗かせた。二つの会話が同時進行するのは人気者になった気がして気分が良かったが、会話が混ざってしまうと面倒で、音楽繋がりの友人の方にはあえて既読をつけずに時間をあけて返信することにした。

2話 - 総てすべての始まり

悠人と数十分間、生産性の薄い会話のラリーを続け、6:50に最寄駅の箏葉台駅に集合することに決まった。

壁にかかった時計をみると心なしか先ほどより疲れているように見える針は5:40を示していた。
ここから1時間以上何をして過ごそうかと策を練ってみる。

「よし、たまには散歩にも出てみよう」

道を跳ねている犬に癒されたり、曲がり角でトーストを咥えた女の子とぶつかったりしないかと妄想を膨らませるが、そんなことはフィクションの世界の中だけだと膨らんだ風船を冷酷な現実に割られてしまった。

絶対に出会ってやる、と半ばムキになりながら、三日前に新調したばかりの運動靴に左、右と順に足を突っ込む。外で鳥が囀っていた。


【 二話終了 】

群青の方程式